年頭に当たり、元旦から「オバマ大統領のノーベル賞受諾演説」を振り返って来ましたが、本日が3回目の最終回です。
近代史を踏まえたその中身は安全保障を学ぶ者にとって格好の批評分析の材料になると思います。米国と議論するなら、米国を批判するなら、まずじっくり読んでおかないと・・・、との思いから紹介します。全文ではありません。ご注意を
●今そこにある現代の紛争
グローバル化の目が回るようなペース、文化的平準化を考えると、人々がアイデンティティ:彼らの人種、彼らの部族、そして彼らの宗教など、これまで大切にしてきたものの喪失を恐れることは多分驚くべきことではない。いくつかの場所で、この恐怖は紛争を引き起こしている。時には我々が後ろに戻っているのではないかとさえ感じる。
そして最も危険なことに、我々は偉大な宗教イスラムを歪曲し、冒涜する人々、宗教が無辜の民の殺害を正当化するために使われている方法にそれを見ている。これらの過激派は神の名において殺害を行う最初の人ではなく、十字軍の残酷さは多く記録されている。しかし彼らは聖なる戦争が正義の戦争ではありえないことを我々に想起させる。
●私はあきらめない。希望を追い求める。
ガンディやキングが実践した非暴力はすべての状況において実際的あるいは可能でなかったかもしれない。しかし彼らが説示した愛、人間の進歩への基本的な信仰、それは常に我々の旅路で我々を導く北極星でなければならない。
何故ならば、もし我々がそれを馬鹿げたこと、あるいはナイーブなことと捨てるならば、その時には我々は人間にとり何が最善なのかを見失う。我々は我々の可能性の感覚を失う。我々は我々の道徳的コンパスを失う。
我々の前の世代と同様に、我々はそういう未来を拒否しなければならない。キング博士は何年も前に受賞の機会に言った。「私は歴史の多義性に対する最後の回答として絶望を受け入れることを拒否する。」
●「彼らを模範に生きよう」
今日、今どこかで、あるがままの世界で、兵士は自分が武力で圧倒されていることを知るが、それでも平和を保つためにしっかりと立っている。
今日どこかで罰するかのような貧困に直面しつつも、母親はその子供を教える時間をとり、彼女の持つ数少ない貨幣をかき集め、その子を学校にやろうとしている。何故ならば彼女はこの残酷な世界にその子供の夢のための場所がまだあると信じているから。
彼らの模範によって生きよう。明確な目で戦争があることを理解しつつ、まだ平和のために努力し得る。我々はそれをすることが出来る。何故ならばそれが人間の進歩の物語であり、すべての世界の希望であり、この挑戦の時期において地上における我々の仕事でなければならないからである。(紹介終わり)
米国の勢いが衰え、世界から退いてゆく様子を目撃する今日この頃ですが、依然このような理念を口に出来るのは米国だけなのでしょう。もちろん東洋には自らの分を守って慎ましやかに生きる理念がありますが、東洋の文化には拳を振り上げて主張することを好まない謙虚さがあります。世界に訴えるには、このような言い振りになるのでしょうか。
それでは本年もよろしくお願いいたします。
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