昨日に続き、年頭に当たり「オバマ大統領のノーベル賞受諾演説」を改めて振り返ってみたいと思います。
極めて立派な演説だったとHolylandは思います、新年に当たり、不安定な極東のプレイヤーたる我が国として考えておかなければならない論点が満載です。また、近代史を踏まえたその中身は安全保障を学ぶ者にとって格好の批評分析の材料になると思うので、適当に部分的に切り取って紹介します。
●悲劇を伴う戦争と平和への取り組み
戦争は平和の維持において果たす役割を持っている。しかし今ひとつの真実、すなわち戦争はいかに正当であろうと、人間の悲劇を約束するものだということと共存しなければならない。
兵士の勇気と犠牲は国、大義、戦友への献身に表れているように栄光に満たされている。しかし戦争自体は決して栄光ではなく、決してそのようなものとして吹聴されてはならない。
だから我々の挑戦の一部は、すなわち戦争が時には必要であるが、戦争はあるレベルでは人間の愚かさの表現である、を両立させることにある。
具体的には、ケネディー大統領が呼びかけた努力が必要なのだ。つまり「人間の本性における突然の革命にではなく、人間の制度の漸進的な進化に基礎を置くもっと実際的でもっと達成可能な平和に我々の焦点を合わせよう」。人間の制度の漸進的な進化がそれである。
●実際的な取り組み
まず最初に、私は強い国も弱い国も同様に、武力の行使を規律する基準を守らなければならないと信じている。・・(中略)必要ならば単独で行動する権利を留保する。しかしながら私は基準、国際基準を順守することはそうする国を強くし、そうしない国を孤立させ、弱くすると確信している。
(中略)それ以上に、米国も、他の国家も、我々自身が道路の規則に従うことを拒否しながら、他の国がそれに従うように主張することはできない。
(中略)最後のポイントを述べたい。・・(中略)武力が必要な時に、我々は特定の行動の規則に拘束される道徳的な利益を有する。規則を守らない悪意ある敵と対決する際も、米国は戦争の基準を示す立場にあるべきと信じる。これが我々と戦う人々と我々との差異である。これが我々の力の源泉である。これが私が拷問を禁止した理由である。
●公正で永続する平和を作る方法3つ
第一に、規則や法を破る国への対応において、私は、我々は、現実に行動を変えさせるのに十分なほど強い、暴力に対する代替策を開発しなければならない。何故ならばもし永続的な平和を望むならば、それなら国際社会の言葉は何かを意味しなければならない。規則を破るこれらの政権は責任を問われ、制裁は本当の痛みを与えなければならない。(中略:概略)北朝鮮やイランへの核兵器の拡散防止にもこれは当てはまる。
(中略)(第2のポイント)、同じ原則が自分の国民を残酷に扱うことにより国際法を侵害している人々にも適用される。ダルフールでジェノサイドが、コンゴで体系的な強姦が、ビルマで圧政がある時、その酬いの結果がなければならない。関与があり、外交があるのはそうであるが、しかしそれが失敗した時、酬いがなければならない。(中略)殴打に直面しつつ票を投じたジンバブエ人の勇敢さ、イランの街頭を黙って行進した数十万の人々の証人に米国はなるだろう。
第3に、公正な平和は市民的、政治的権利を含むだけではなく、それはまた経済的安全保障と機会をも含まなければならない。何故ならば本当の平和は恐怖からの自由だけではなく、欠乏からの自由でもある。(順序逆転)文化大革命の恐ろしさに鑑み、ニクソンの毛との会談は許しがたいように見えた。しかしこれは確実に数百万のその市民が貧困から救いあげられ、開かれた社会と結び付けられる道に中国が動くことを助けた。
ところで、米国特有の言い回し、例えば「第3帝国と枢軸国の敗北ほど正統な大義と考えられるものはないが、第2次世界大戦はその紛争で死んだ文民が死んだ兵士の数を超えた紛争であった。」との気になる表現も含まれることは追記しておきます。
本日はここまでとします。明日は地道な取り組みへの理解を訴えるオバマ大統領の言葉、「子供たちがよい教育や家族を支える仕事への願望を持ち得ないところでは存在しない。希望の欠如は社会を内部から腐らせる。」等を紹介します。
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