明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
米国国防省の動向を中心に、安全保障関連の話題を扱っている「東京の郊外より・・・」ですが、年頭に当たり「オバマ大統領のノーベル賞受諾演説」を改めて振り返ってみたいと思います。
昨年12月10日にオスロで行われたこの演説は、マスコミでは、戦争を正当化、米国中心の世界観、等々とあまり肯定的には扱われませんでした。しかし、軍事超大国の指導者として、そして戦地に自国民兵士を送る最高指揮官として、極めて立派な演説だったとHolylandは思いますし、近代史を踏まえたその中身は安全保障を学ぶ者にとって格好の批評分析の材料になると思います。
新年に当たり、不安定な極東のプレイヤーたる我が国として考えておかなければならない論点が満載です。米国と議論するなら、米国を批判するなら、まずじっくり読んでおかないと・・・。
以下は、Holylandが独断と偏見で抜粋した演説のいくつかの部分を3回に分けて紹介します。なお、スペースの関係上、単語すべてをフォローはしていません。
●受賞を謙遜して・・・
世界には、正義を求めたために牢屋で殴打された人々、苦悩を和らげるために人道的組織で働く人々、その静かな勇気と共感の行為でシニカルな人をも動かす数多くの無名の人々がいる。これらの人々、一部の人と彼らが助けている人以外には知られていない人々、が私よりもずっとこの賞にふさわしいと考える人々に私は異議を唱えることはできない。
●平和への米国と人類の歩みを振り返り
もちろん酷い戦争が戦われ、残虐行為が行われた。しかし第3次世界大戦はなかった。冷戦は壁を壊す喜びにあふれた群衆により終結した。商業が世界の多くを結びつけた。数十億人が貧困から救いあげられた。自由と自決の理想、平等と法の支配は歓呼しつつ前進した。 我々は過去の世代の堅忍と先見の相続人である。そしてその遺産は我が国が正統に誇りにするものである。
●武力の行使という矛盾きわまる手段について
我々は厄介な真実を認めることから始めなければならない。我々は我々の生きている間に暴力的な紛争を根絶しないだろう。(そして)国家が、個別にあるいは集団で行動して、武力の行使を単に必要であるばかりではなく、道徳的に正当化されると考える時はある。
この言明を私はマーチン・ルーサー・キングが何年か前にこの同じ式典で述べたこと、「暴力は決して永遠の平和をもたらさない。それは社会的問題を解決しない。それは単に新しい、かつより複雑な問題を作りだす」、を念頭に置いたうえで行っている。キング博士の仕事の直接的な結果としてここに立っている人間として、私は非暴力の道徳的力についての生きた証拠である。
(しかし同時に)私はガンディーやキングの信条と人生には、弱さ、受け身性、ナイーブさが何もなかったことも知っている。
●米国の元首として
しかしわが国家を保護し、守ると誓った国家の元首として、私は彼らの模範だけで導かれることはできない。私はあるがままの世界に向き合っており、米国民に対する脅威を前に何もしないでいるわけにはいかない。間違わないでほしい。世界には悪が存在する。非暴力の運動はヒトラーの軍を止めることはできなかった。交渉はアルカイダの指導者にその武器を置くように説得できない。力が時には必要であるということはシニシズムへの呼びかけではない。それは歴史、人間の不完全さ、理性の限界の承認である。
・・・(中略)しかし世界は単に国際制度、条約や宣言だけで第2次大戦後の世界に安定がもたらされたのではないことを思い出さなければならない。我々がどういう間違いをしたにせよ、単純な事実はこれである
本日はここまでとし、明日は「今ひとつの真実、すなわち戦争はいかに正当であろうと、人間の悲劇を約束するものだということ」、戦争の矛盾とも向き合うオバマ大統領をお伝えします。
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