双葉山「未だ木鶏たりえず」

大相撲九州場所初日記念の再掲載
白鵬があと7つに迫った連勝記録、69を持つ双葉山とは・・・
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Futabayama_Sadaji.jpg(われ)未だ木鶏たりえず
冒頭の言葉は、不世出の大横綱「双葉山」が69で連勝がストップした日の夜(1939年1月15日)、師と仰ぐ安岡正篤に打電した電文として知られています。木鶏(もっけい)とは木で造った闘鶏のことで、『荘子』に出てくる鍛えられた闘鶏が木彫りの鶏のように静かであったことから、「不動心」の象徴と考えられています。
69連勝から70年余り経った2010年、横綱白鵬が60連勝して、双葉山の名前が再び取り上げら始めましたので、日本の国技「相撲」の大横綱、双葉山をネットで勉強してみました。
双葉山の生い立ち
●双葉山定次(さだじ)は1912年2月9日生 – 1968年12月16日没(56歳劇症肝炎で)。大相撲の第35代横綱。大分県宇佐郡(現在の宇佐市下庄)出身。身長179cm、体重128kg。)血液型はA型でした。「木鷄」を目標に相撲道に精進し、本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録年2場所の時代を考えればとてつもない偉業でした。
●少年時代は成績優秀で普通に出世を目指しており、相撲に元々はそれほど気持ちを入れていたわけではなかった様です。しかし、父親の事業(海運業)が失敗したり、兄が早世し、妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男として父の手伝いをしながら逞しく育てられたようです。
右目はほぼ失明、右手の指も・・・
Futaba.jpg●5歳の時、吹矢が右目に当たった負傷が元で右目が半失明状態だったことや、右手の小指が不自由(事故で2度の重傷)といったハンデを抱えながらの相撲人生であったことはあまり知られていません。
●右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては霞んだり物が二重に見えたりしていた程度でしたが、やがてほとんど見えなくなったそうです。なまじ見えるよりその方が都合が良かったと、当人は後に語っています。対戦力士の側にも、「あの人は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残されています。
安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含め、大半が右目の方向から攻められています。右目が見えないことは非公開でしたが、当時の関取・笠置山の談話によると「我々は皆、双葉山の右目のことを知っており、当然そこを狙って作戦を立てていた」とのことでした。
入門当時は目立たない力士
●1927年、才能を見出した県警の双川喜一部長(のち明治大学専務理事)の世話で立浪部屋に入門。同年3月場所初土俵。四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から付けられました。さらに入門の際に世話になった双川氏の1字も含まれました。
●入幕以前は目立った力士ではなく、成績は4勝2敗が多く(当時幕下は1場所6番)大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく、元横綱栃木山から、「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたと伝えられています。
きっかけは蓄膿症治療
FutabaDohyo.jpg1935年蓄膿症の手術を機に体重が増え、それまでの取り口が一変したと言われています。立合い、「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組みとめた後、吊り寄り、乃至必殺の左上手投げで相手を下すようになったようです。
●1939年1月場所4日目(1月15日)、前頭4枚目安藝ノ海に敗れるまで69連勝を記録。69連勝は…1936年(昭和11年)1月場所7日目~1939年(昭和14年)1月場所3日目。同場所4日目に前頭4枚目安藝ノ海に敗れました。
無理に出場し連勝ストップ
●1939年1月場所、前年の満州巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減、体調も最悪だったので、双葉山は当初、休場を考えていたようです。しかし、力士会長の横綱玉錦が虫垂炎を悪化させて急死した(双葉山が2代目会長になった)為、責任感の強い双葉山は強行出場しました。
●この場所、前頭3枚目安藝ノ海に敗れて連勝が止まると5日目同4枚目両國、6日目同3枚目鹿嶌洋と3連敗し、9日目には玉錦の跡を継いだ小結玉ノ海に敗れ計4敗を喫したと記録されています。
潔い土俵態度
FutabaCup.jpg●どんな相手に対しても同じような態度で臨んだとされています。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、1回目の仕切でさえ受けて立った(1度目で立った相撲でも見事に勝っている)といわれ、立ち会いの乱れが叫ばれる今日の相撲界の手本とされています。
双葉山が無駄な動作を嫌い、土俵上の短時間に極限まで集中を高めたためですがが、「勝負師は寡黙であれ」や「一日に十分間だけ精神を集中させることは誰にでも出来るはずだ」との双葉山の言葉にもこうした土俵態度が表現されています。
双葉山人気で15日制へ延長
●双葉山が三役に上がった1935年頃は一場所の取組日数は11日でしたが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増した為、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となりました。
●現在では、15日制への移行で力士への負担が増えたなどという人がいますが、双葉山は「相撲ぐらい怪我をしないスポーツはない」といって後輩を鍛えたそうです。また「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」や「相撲は体で覚えて心で悟れ」との言葉が力士の間で伝えられているようです。
相撲協会理事長としても活躍
FutabaRT.jpg●1957年5月に出羽海理事長自殺未遂事件の後に相撲協会理事長に就任し、相撲協会構成員(年寄、行司等)65歳定年制の実施や、部屋別総当り制の実施、相撲茶屋の再編と法人化などの改革に尽力しました。。
●また自身は年寄時津風として1横綱(鏡里)、3大関(大内山、北葉山、豊山)等数多くの名力士を育成しました。弟子の青ノ里の話では1953年(41歳)にはまだ自ら弟子に稽古をつけていたそうです。
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返す返すも、美しい凛とした横綱です。横綱白鵬に恨みはないけれど、双葉山も記録を破らないで欲しいと思うのは、日本人としての偽らざる気持ちでしょう。来場所に注目です。
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(追伸)
でも白鵬もなかなかいい男です・・・。
「文藝春秋」10月号に朝田武蔵氏による白鵬へのインタビュー記事が載っています。白鵬は「私は力の強い人間じゃない」と言って、そして、こう続けています・・・
Hakuhou.jpg相撲は力じゃない。体の使い方です。(稽古を重ねて)足腰が良くなる、体が大きくなるというと、(相手への)圧力が強くなる。足腰がいいと、体重を活かす相撲ができるようになる。(上半身の)力に頼ってないんですよ。わたしの体重152㌔は幕内(力士の)平均体重です。平均であっても150㌔ってすごい重いじゃないですか。それを利用する相撲になってるんですよ。目に見えない圧力です」
土俵上で、闘志をむき出しにする関取もいるが、白鵬は違うようです。
歌にあるじゃないですか、勝つと思うな、思えば負けよって。だから、勝ちに行くんじゃないぞみたいな。横網っていうのは、思い切って(相撲を)やってないんです。100%(の力)でやってない。そうすると絶対、落とし穴があるんです。ちっちゃい土俵だし、俵を割れば負けだから。バーッと馬鹿みたいに待ったりしたら、負けちやいますからね」
69連勝まであと7つ、ですか・・・
おまけ
「駒野を慰めたパラグアイ選手」→http://holyland.blog.so-net.ne.jp/2010-06-30
「ショパン国際ピアノコンクール」→http://holyland.blog.so-net.ne.jp/2010-09-18
「(2/2)「防衛白書」5つの背信」→http://holyland.blog.so-net.ne.jp/2010-09-12
「(1/2)「防衛白書」5つの背信」→http://holyland.blog.so-net.ne.jp/2010-09-11

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