18日付産経新聞の一面囲み記事「日の蔭りの中で」において、京都大学教授の佐伯啓思(けいし)氏が、東日本大震災の「とらえ方」「受けとめ方」について自説を展開されています。
反米・嫌米の部分・・「近代的科学・技術主義を極限まで推し進め、核技術を開発して、2度までも日本に原子爆弾を投下して放射線をまき散らかしたアメリカが、福島原発での日本政府の対応や情報提供に注文をつけたり、放射線拡散に神経質になっている」はお好きな方に味わっていただくとして、
自然への「畏れ」を説いた部分は感じるところがありましたので、かなりはしょって部分的にご紹介します。以下は新聞記事の抜粋。
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●1755年にポルトガルのリスボンを襲った大地震は、この町をいっきに破壊し、津波による死者も含めて6万人の犠牲者を出したといわれている。この大地震を歴史に残すものとなったのは、地震の被害の甚大さによるだけではなく、この地震が起きたのがちょうど11月1日のキリスト教の祭日であったことから、当時のヨーロッパの世界観に大きな影響を与えた点にある。
●この地震によって大きな精神的影響を受けた人物の一人に哲学者のカントがいた。彼は地震の研究などもしたりするが、やがて有名な『判断力批判』という書物を書く。ここでカントは次のようなことを述べている。
●荒れ狂う海、暴風、雷、こうした人間の力をはるかに超えた巨大な自然現象は人間に恐怖心をおこさせる。それは人の命も財産もすべて一瞬にして破壊し尽くすだけの力を備えている。そのことに人は本能的に恐怖を覚える。
●しかし、理性の力と構想力をもって人は、自然現象を解明し、恐怖を乗り越えることができる。そのとき、人は自然に対して「崇高」な感じをもち、その崇高さによって、人格性を高め、自然を支配することができる。つまり、人は、生物的な存在としては巨大な自然の脅威に屈服するが、しかし理性や構想力をもった人格性において自然を支配できる、というのである。
●この延長上に確かに近代的な科学的思考というものが出てくるだろう。大地震や巨大な暴風のような自然現象をただ恐怖するのではなく、そのなかに横たわっている法則を理性の力によって取り出し、自然現象を動かしているメカニズムに驚嘆しつつも、それを理解することで人は自然を支配することができるだろう。
●もちろん、カント自身は理性の限界をよく理解していたし、人間の能力が万全だなどとはまったく考えていなかった。にもかかわらず、リスボン大地震から250年もたてば、人は科学と技術の力を万能であるかのようにみなすようになる。この極限に核の技術ができ核兵器と原発ができあがった。そして、自然を支配して、よりいっそうの物的幸福を手に入れるという近代文明の無限の歩みにはもはや歯止めはかからなくなっていた。
●東日本大震災がかつてのリスボンのように世界観の転機になるのか否か、それは不明である。しかしそうなるべきであろう。ただこの転換は、当時出現した啓蒙(けいもう)思想や科学主義とは逆で、人間中心的な理性や科学の限界を如実に示すものであった。自然の脅威は、それを支配できるとした人間の驕(おご)りを打ち砕いた。カントは「崇高」という言葉で人間の理性能力や自然に立ちむかう雄々しさに訴えた。
●しかし、それはいつのまには驕りに変わる。今度の災害が示したことは、「驕り」ではなく、また「恐れ」でもなく、自然への「畏れ」をもつことである。自然への「畏れ」と「おののき」をもつという賢明さをわれわれはすっかり忘れていたように思う。
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まんぐーすも何が出来るわけではありませんが、ただテレビで紹介されるタレントや芸能事務所の「がんばろう」活動には、自然への「畏れ」と「おののき」を感じている人の姿が見えてきません。
自然への「畏れ」と「おののき」は、被害の中にあってじっと耐えている人や、決して声を荒げず不躾なマスコミの取材に応じる人の中に感じられるように思います。